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飘零公子中日语言文化研究塾

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日志

 
 

【原】日中現代言語関係について  

2010-02-16 21:21:05|  分类: 论文 |  标签: |举报 |字号 订阅

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 修士臨地調查研究中間レポート                                                           

                                                           日中現代言語関係について

                                            ――そのマスメディア感性表現の現状と未来像

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0.)はじめに

言語は社会生活を組織し、社会生活の主要な動力の一つを推進する。これは言語が人のために用いる道具で、人々が交流し、共同活動し調和するためのものだからである。言語がなくては、社会は間も無く崩壊する。さらに、言語はまた人類が抽象的に思惟した工具であり、人々が思惟した結果と認識運動した成果であり、経験を引き渡す手段である。さらに言語は社会を発展させる強大な推進力及び生産力である。

今回、言語関連臨地研究の目的で中国広東省広州市へ飛びたった。

 

中国南部広東省は中国大陸の最南部、五嶺(嶺南ともいう)山脈の南に広がる地域である。東に福建省、北に江西、湖南両省、西に広西チワン族自治区と接し、大陸最南端の雷州半島と狭い海峡を隔て海南省(海南島)と向き合っている。また、現在はイギリスから返還された香港、ポルトガルから返還されたマカオも広東省の南に接続している。1988年4月までは、海南省と南海諸島も含まれていた。

広東は華南地域「広南東路」を短縮した言葉である。『大清一統志』によれば、18世紀末の広東省は「十府三直轄州」からなり、現在の広州市周辺は「広州府」、省都の広州は「南大門(南の玄関)」とも呼ばれ、古くから国際貿易港として栄えてきた。唐代には既に「租界」に似たアラブ人やペルシャ人の居留地が置かれ、14世紀の修道士オドリコの『東洋旅行記』にも当時の広州の記録がある。

広東省が中国政治の表舞台に登場するのは、近代に入ってからである。イギリス人が初めて広州に来て交易するのは1637年だが、1780年代からアヘンを売り始めた。清朝はアヘン禁輸を命令したが、密輸が絶えず、厳禁策が採られ欽差大臣林則徐を広東へ派遣。大英帝国の利益を害したという口実で、英軍は広州を侵攻し、以後100年余中国にとっては筆舌尽くしがたい屈辱と苦難が続いた近代史の幕開けの舞台となったのである。

一方、豊かな珠江デルタ地域は、亜熱帯系の広東人が内陸部から一足早く東洋や西洋諸国の影響を受けたが、これは、広東人が中原の歴史文化よりやや短く、伝統の束縛も少なく、健気で進取の気性に富み、中国で最も早くに近代に入るとともに外国勢力や腐敗権力に抵抗するという「犢が虎を恐れない」精神に溢れていた。

広州市が国際都市らしさを取り戻すのは、春秋の「広州交易会」を開催しだした1957年からといってよい。1970年代末までは、同交易会が資本主義世界に開かれた唯一の貿易窓口だったが、近代化が本格化しだした80年代以後、深圳など三つの経済時区を中心に開発を進めたの。

今回広州市で訪ねたところは、「広州日報報業集団/《広州日報》社?副刊編集部」、「広州図書館」、広州「広東省中山図書館」、広州「孫中山文献館」、広州「中山大学/外国語学院?日本研究センター?図書館/第一図書館」、「広州美術学院」、「広東電視台(TV局)?対外部?電視劇(TVドラマ)部」、「中国共産党広州市委員会?老幹部管理局」であり、広告業界、商業界、企業界、学者、高校生など様々な人々に会って、研究テーマに関する教示を受け、予想外の結果もあった。

 

1.)地方言語文化情報の「集散地」――PCとローカル新聞

「IT革命」というの時代を迎えた後、中国では、現在インターネット加入世帯数が一億を超えたといわれており、2005年までに加入世帯2億の達成を目指している。現在、広州市内の新築分譲マンション、リゾート?マンション、リゾート?ホテル、郊外の別荘などには、INSネット64(寛頻高速因特網)が各部屋に接続できるようになっているのも当然のことである。一方、一定の条件を備えている中古マンションでも、インターネット接続のため改装工事が次々と行われている。また、一部の小中学校では、教師が宿題をインターネットで出し、生徒が各々家庭内のパソコンで宿題をすることが普通になっている。

市内の市場にはパソコン、インターネット、大量かつ多種多様なPCソフト販売しており、家庭内では40近くのTVチャンネルが日常的に選択可能であるという嵐が中国の大都市広州における一般市民の生活を席巻する時代のなか、言語媒体或いはマルチメディアに大きな実体として存在している新聞業界はとのように対応しているのだろうか。先ず、中国新聞業界におけるこの十数年来の改革を回顧してみる

 

新中国の新聞史は、政府と「党」の「宣伝紙」から一般新聞紙へと転換したという点でユニークであり、夕刊とカラー紙の発行など独特のシンボルマークで包み込むなど、常に新風を吹き込んでおり、波乱を含みながらも台風の目として注目されていきそうだ。

新聞と雑誌の歴史はラジオやテレビ、またPCより比べると長い。改革開放後、報刊の市場化進程は放送業界に比べ最も早いが、この数年来、新聞と雑誌が発展することを調査し、放送業界との競争及び発展が極めて大切であることを研究する。

  早80年代中期に、各々業界勃興が急激な高まりを告げることに伴って、中国国内の新聞に早くも「政府型」新聞と「市場型」新聞の分化が出現した。「政府型」新聞というのは、その特徴は各級の党と政府機関から、或いは各業界を直接指導する機関から直接的に指導して、諸般の方針政策およびこれらの方針政策に対した檄を発布することにより、帰属「単位」である「党の喉と舌」の機能を果たしている。この帰属の「対口単位(所属会社と役場)」が全て公費で購読することになっている。一方「市場型」新聞というものは違って、その帰属は主に各業界団体或いは民間団体であり、これらが調達するものである。この業界新聞の機能は主に読者の娯楽や暇潰し、企業または「単位」情報に対する需要を満たして、新聞は当然主に「単位」が公費或いは自費で購読している。

  両者の新聞にはいくつかの分化があって、ただ「政府型」新聞は発展的に改革しており、人民の生活、社会観念などの面は絶対的な主導権を握っている。人々は「政府型」新聞の情報により、価値判断、生活、行為方式について影響を受けている。社会進歩がこの「政府型」新聞に全体的な改革行程の推進させた。市場経済と「市場型」新聞という二重の圧力下で、「政府型」新聞は観念からメカニズムまで、大きな変化が発生した。

過去に経費が支給され、公費で購読されていた時は、「政府型」新聞には全くと言ってよいほど経済的憂慮がなかったため、新聞社はより一層「党の喉と舌」という作用を発揮して、広大な人民の生活に対し、全面的な指導を行ってきた。しかし、10年程前から発行部数が激減し、広告の撤退は、経営の重要性を深く認識させた。現在の多くの「政府型」新聞社は皆同様に、管理と経営という二輪を一斉に回し、ジャーナリズムに集団化という新しい道を歩むこととなった。こうして「政府型」新聞は「市場型」新聞への主導的な競争と反撃を不断に拡張させた。もっとも、資本金提供主体は依然として政府或いは「党」であり、「党の喉と舌」という使命は維持しなければならないので、かつ全体的な新聞の市場化は困難であろう。この前提のもとに採用した一つの方法が、一足先に一部の「政府型」新聞を市場に参入させ、直接「商業の海」に入り、売店、露店での販売を開始した。

「政府型」新聞と「市場型」新聞は互い競争、融合し、以前、《人民日報》と《光明日報》の記者が感服したように、「中央または地方政府」の権威と「市場」の権威、即ち、政府の財政力という強い支持と、発行により広告の利益、市場の効果を取得したのである。但し、今日の情勢は異なり、読者の眼には「政府」と「市場」両極の「権威」は分化を開始したように映っている。《人民日報》などのように依然として政府の権威を代表している新聞には、人々は「党」と「国家」の大きい行政方針、中国国内や国際情勢への理解分析を求め、各企業と事業「単位」は従来通り必要であり、「党」と「国家」の政策を理解し、自分の仕事と調和させる。一方、流行や日常生活の情報などは、「市場型」新聞によって得られる。情報需要を「市場型」新聞で満足させることにより、倫理、価値観、流行観念、行為方式などは、ますます「政府型」新聞へに求められる。広告には、多少ローカルな生活サービス情報、消費指針、日常物資、製造者ルールなど親しみを持てる情報は「市場型」新聞へに求められる。

「市場型」新聞は「政府型」新聞の挑戦を受けて、経済的苦境に直面した。生存を維持するため、少しの娯楽的新聞はやむを得ずスターのゴシップを掲載することで糊口をしのぎ、街の噂で読者の寵愛を得ようとする。経済情報新聞は有償のニュースを掲げて紙面を売却して、またごく一部新聞には不正な広報活動するなどを受けて、結局は悪循環に陥り、多くの新聞がこの無秩序な競争の餌食となって、次々と倒産していった。

90年初期、新聞業界は様々に発展し、地方の夕刊は絶好調であった。新築分譲マンション、中古アパート、パソコン、自動車などの広告や募集の紙面を提供して、サービス広告が占める専門新聞が次々登場し出した。その時期は《新民晩報》、《羊城晩報》、《北京晩報》に掲載されている広告の数量は《人民日報》を超え、夕刊は多くの都市住人の仕事を終えた後の元気回復必ず欠かさずの「夕食」になっている。

このような根本的な変化が、《青年週末》及び《南方週末》(「南北の二侠」と呼ばれている)を出世させ、多くの新聞には、この「二侠」の大成功が自分たちの苦境から脱する曙光と見えた。

 

1992年に至るまで、《青年週末》新聞は、北京市朝陽区大衆娯楽施設にある地下室で事務をしており、最初は紙面がたったの1枚で誕生したのだが、その新芽は、格調と気品高く、内容は豊富で、生活にも接近していた。同時に、広州の《南方週末》新聞も全国的な成功を獲得することとなった。「両週末」の成功という啓発のもとで、各新聞社は自社新聞の「週末版」分離戦争を勃発させ、各社の「週末版」はスターのホットなスキャンダルを競った。

現在、新聞業界の「腕児(スター)」たちは《北京青年報》、《南方周末》から出現している。《北京青年報》や《南方週末》の記者は、自分の提起する報道記事で、他の新聞社の同業者たちを羨ましがらせたり驚かせることが可能だが、「あの文章は貴方が書いたのですか、名刺を交換して下さいませんか」というふうに。過去の大新聞社のスター記者が持っていた使命感、責任感、特に火のような情熱は確かにあったが、「市場経済」時代の流れのなかで段段薄くなっていく一方で、新しく誕生した多くのタブロイド記者の群れに、盛んな生気を閃かせた。

一方、マスコミ業界が活発な日本では、文字言語表現を主とする新聞業界はどうしているのか。

 

近代日本新聞の歴史は、明治維新が起点とされるが、江戸時代の安定した社会で「寺子屋教育」や「瓦版」が普及し、明治維新のときには、すでにマスコミへのニーズが存在していたことが、早い時期でのマスコミのスタートの環境を可能とした。

明治10年(1877)時代、全国の都市で日刊紙が次々と創刊され、明治20年代には、雑誌や書籍の出版も盛んになった。《毎日新聞》は明治5年、《読売新聞》は明治7年、《朝日新聞》は明治12年、地方紙のほとんども明治初期から中期にかけて、次々と創刊されている。

比べたのところに、以下は広州における華南地方3大新聞紙(ほかに《羊城晩報》、《南方日報》)最も有力の地方紙「広州日報報業集団」?《広州日報》社を例に対して述べる。

 

中国新聞業界の競争は「弱肉強食」の時代にすでに出現しており、抵抗のため、再合併集団化を邁進する段階に向かっている。「広州日報報業集団」は、現在その旗下に17軒の合併した中国語、英語含め文字また言語、マスコミ関係の新聞社や雑誌社、出版社がそろうメディア集団である。

文字と言語で構成される新聞《広州日報》社の本社と編集部は、広州市の下町の中心部にあって、上海や北京に支局があり、編集、印刷、発行、配達、雑勤等を含めて、職員の数は約2千人である。《広州日報》社編集部は、毎日午後10時には編集が仕上がり、朝3時頃に印刷終了、4時から配達を始める。

 下は、《広州日報》の主要部門組織図:

 

戸別宅配制度問題は本来新聞そのものに関わる問題であり、非常に重要である。欧米でも配達制度がまったくないわけではないが、その大部分は個別にスタンドで買うか、定期購読者になって郵送してもらうか、いずれにしても、新聞社そのものが読者に直接サービスする部分は多くはない。

 

日本の新聞は読者が必要とする場所まで運ぶのが常識となっている。これがあってこそ、新聞の普及率は世界一の水準にあり、新聞が国民意識の向上に大きな役割を果たしてきた。新聞業界には、昔ならばある種の哀感をもって口にきれる言葉に「新聞少年」という言葉があった。「ご苦労さん」という気持ちも「大変だね」という気持ちも込められていたに違いない。苦学生がいなくはなかったろうが、サービス産業を中心に未熟練労働力への需要は高く、同様な労働で同等の、あるいはそれ以上の対価は十分得られてしまう。平成元年に実施された「新聞販売店従業員総数調査」によると、従業員の構成で、大人が初めて50%を突破してしまい、学生を中心とするいわゆる「新聞少年」は30%を下回ってしまった。また、最近では外国人労働者の雇用も本格的に始められてきており、その問題の深刻さをー段と浮き彫りにしている。

 

《広州日報》契約世帯への新聞配達者は殆ど農村部から都会に出稼ぎ来ている若者パートである。大変な苦労とは言わないが、朝早めに(夕方出勤もますます増えている)出勤し、配達はエレベーターの無いビルが多く、重い新聞を持って高層まで運び、年中無休。これもある種の「男の真剣勝負」の仕事だろうが、長期に出勤できるスタッフを保有することは各新聞社における大事な課題である。

 当然、新聞各社はこの状況に以前から危機感を募らせて、さまざまな対策を講じている。配達人に対するボーナスや有給研修制度の導入、学生アルバイトや「下岡(失業)」者の雇用等々だ。新聞配達への求人広告が、テレビにまで登場する時代となってしまった。 

 現在、新聞も集団化、機械化、コンピューター化の波に乗って、取材、制作など多岐にわたる面で急速な変化を遂げている。この十数年ほどだけでも、鉛の活字が消え、編集はコンピューター化され、カラー化も着実に進み、職人的な世界はもはや語り草々になってしまった。制作分野では明らかに、機械化、また合併から余剰人員が出て、合理化が劇的に進歩した分野も少なくない。 

 《広州日報》編集部が使用しているマルチメディア編集用の言語文字フォントや画像ソフトは、すべて中国におけるIT業界中最有力の企業《北大方正集団》開発した中文システムのものであり、操作して見ると、漢字が使いやすく、PC系統全体の安定性が強く、言語創りや画像を取り込む機能も優しい。また、漢字言語の純粋性や公用文、文章の規範性をきちんと保持できるため、編集スタッフたちは愛用している。「広州日報」は、年間休むことなく、紙面の数は約70から80、新聞使用文字の大きさWindows系統比べて見ると約9号字相当、1部1人民元で、上海20万部、北京10万部を含め、毎日合計約220万部、週末は250万部を華南地方広州市中心に発行している。「広州日報マルチメディアグループ」は、昨年、《広州日報》だけの広告収入の実績は、同社の発表によると、10億元であって、今年の2001年は13億元を超えると見られている。それでは広州市圏だけでなく、華南地域全体で、そして中国全国で、長年に《広州日報》の影響力や経済利益は新聞業界第一位を占めた。地方紙の動向は全国紙がそれなりに特徴的な問題を抱えているのに比べ、余りにも多様的である。ところが、2002年1月1日から12月31日までの一年間で、広州―北京間特急列車4便に「広州日報号」の名前を付ける権利を獲得して、中国で列車に報道機関の名前が附けられるのは国内で初めてある。

しかし、基本的には、北京を中心にした中央からの情報の雪崩れ込みに、地方独自の情報の掘り起こしで、いかに対抗していくかということに集約される。情報の全国一元化は、単に全国紙の存在だけにはとどまらない。例えば、パンダの子の誕生、「老紅軍(共産党の昔の軍人)」の死亡記事などの徹底的な掲載、地元ネタのスクープの独占など、そのきめ細かな編集は、全国紙などがなかなか追い付けないところがあるのも事実であろう。これと地方のニュースを中央どう対抗させていくのか、または、どう共存させていくのかが、しめるようになった。これは単純なことのようだが、一部ローカル紙にとっては、地方紙であることの魅力を一つ失ったわけであり、ナイターはあくまで卑近な例だが、ほかのニュース全般についても同じようなことがいえるだけに、地方紙の特色がなくなる感じは強いようだ。無論、ローカル紙の特色はニュースが地元に根差したものであり、その深み、量の多さで全国紙を凌駕している。

 だが、全国紙も紙面を増やすー方、当然の結果として、読者へのサービスという観点からの紙面充実をはかっており、競合する面も増加しており、地方紙も安閑とはしていられない。政治的な批判記事などでは、地方紙が触れられない部分までニュースとして取り上げる姿勢を示して、全国紙の特色を出すケースもあるという。

 

 ところで――

筆者:「パソコンの普及やインターネット加入世代の増加に対し、新聞業界は大きな危機感はもっているのではないか。」

新聞社の副刊部の担当文麗々嬢:「数年前は確かにあっただろう。今はだんだん落ち着いてきている。しかし、新聞社の間に[戦争]はまたまだある。」

「なぜか。」

「先ず、新聞の値段は安い。一般家庭用PCのでも、機体や付属品の購入、インターネット加入料、電話接続料などで、最低でも1か月か2、3週間分の給料が必要だ。

次に、新聞は読みやすい。新聞はいつでも、どこでも、何回でも読める。一方、パソコンは様々な制限があり、手間も結構がかかるだろう。

また、新聞はリサイクル利用が可能である。たとえば、敷物にしたり、包装紙にしたり、拭き物にもできるし、再生資源として換金もできる。パソコンは一度機種変更をされたら、更新したりして、とても金がかかるだろう。

市民は、パソコンやインターネットを[魚(海や川からの幸)]、新聞を[熊の手(山からの珍味)]と喩え、両方とも兼愛している。つまり、新聞は街の[掲示板]のようなもので、市民は身近で新鮮な、いろいろな情報や広告などを新聞から読み獲り、また、パソコンやインターネットは[窓]のようなもので、専門別、分野別あるいは、知識的、趣味的情報を、パソコンやインターネット画面から得ている。

中国人は、昔から国家や民族の重大ニュースに関心が高く、新聞は一番手に入りやすい情報源である。明末清初に新聞紙が誕生して以来数百年、新聞はますます発展しており、現在、世界を見ても、国内を見ても、新聞が衰退する兆しは何処にも看えない。ともかく、新聞がある日突然無くなるというような心配はないだろう。

現在、新聞記事はインターネット上で大量に掲載されており、逆に、パソコン及びIT関連商品の販売や宣伝は、新聞にとって大事な[お得意様]である。

つまり、PCと新聞は[良き相棒]として、厳密な意味での競争相手の関係ではなく、長い時期を共存共栄しつつ、いずれも市民たちに共有されているというのが現実であり、また我々もそうと考えている。」

以上は、中国地方最も有力な新聞社へのインタビュー内容の一部である。私も文さんから一層より覚悟していった。

 

確かに、新聞業界は今、大きな転換期に突入しているとされる。この10年以上の間、言語また文字、音声メディアの多様化から、現実感をもって正面から論じられるようになって来ている。従来は、新聞は単純に映像メディアの中核であるテレビに対峙されていた。そのスピード性、映像によるリアリティなどの分野で、テレビに押され、情報伝達能力としてのこれまでの力に疑問符を打たれ、新聞の存在意味が薄れていくのではないかという観点からだけ、問題視されていた。最近の国際情勢の激変、或いは現在のアフガン戦争などについても、感性的な情報はテレビから、そして理性的な判断材料としてのニュースは新聞からという形の併存が立証されたとされる。

 しかし、新聞を取り巻く環境がこれで安定したとするわけにはいかない。情報の量の拡大と深まりはボーダーレス時代を、国際的にも国内的にも加速させている。テレビは衛星放送時代に真一文字に進んでおり、テレビの高画質化も本格的に動き始めようとしている。また、各新聞社によるデータベース機能が急速に充実して、新しい情報手段として注目を集めつつあり、テレビに加えて、ラジオ、雑誌などの動向も無縁ではなく、新聞にさらなる変革を求めている。そして、その情報機能としてのものだけではなく、発行部数、宅配制度などの複雑な側面が経営問題を内抱しているだけに、極めて深刻であることを認識しておくべきであろう。現在、新聞業界が抱えている最大の課題は発行部数がほぼ限界にきているという状況がある。経営的には市場の限界がある業界ほど苦しいのは当然である。週休二日制の飛躍的な普及で、読者のニーズが変化してきているのがわかっていながら、十分な対応しかできていないわけではない。当然の帰結ながら、その行き着く先は市場の争奪戦にならざるを得る。購読料金と広告収入のバランスをとりながらの新聞経営は、量的拡大が大きくは期待できないなかで、決定的な経営の二本柱であることがよく示されている。また、それも情報提供の質的な側面がからんで来るわけであり、新聞業界の織烈的な競争は止むことはなさそう係の強さなどに歴然として表れて来ている。

 新聞の編集について見ても、カラー化にも積極的に取り組んでいる。それに新聞の価格でも独自路線をとり、他社に迎合することはしない特色を出している。新聞は第三次産業では基本的にはないのである。これは、出てきた結果が情報であることから誤解を招き易く、十分に見極めておくことが必要だ。新聞社は今、文化事業を中心として業務部門の多角化を進めており、経営などを通じて教育事業、スポーツ事業などあらゆる関連分野に進出しつつある。新聞で培った能力を最大限に発揮するに構えており、動いてもいる。

 

2.)共通語中心に多種方言構成TVドラマの表と裏

中国のテレビ放送業界は、「中国広播電影電視部(ラジオ映画テレビ省)」が管轄している。広播電影電視部は1986年に設けられた。地方ではそれぞれ地方政府内に広播電視庁(局)が置かれている。

 1949年、中華人民共和国成立。1958年には中央電視台が本放送を開始した。翌年には、上海、広州、ハルビンなどでテレビ局が開局している。地方での制作が活性化するのは1983年ごろからである。

行ったのところは広東テレビ局「テレビ制作センター」と「対外部」。元本部長の何さんはTV局のシステムから多方言TVドラマまでいろいろな話してくれた。

 

広東テレビ局は1959年に開局して、中国TV局における最も早く、最も影響力のある省級テレビ局を一つ持っている。約1800人のスタッフを擁して、国際水準を備えたテレビ技術の設備がある。

広東テレビは広州越秀山頂のタワーによって全省東西南北全長約2000キロメートルの配線とハイパワーバックボーン中継局とを繋いでいる。番組信号を送り届けられている省内の各主要な都市は広東省北、東、西及び南とを分かれる。信号は全省に網羅され、省人口の約95%、また全国32省と直轄市1千数百個の有線テレビネットに伝わる、合計1億人以上の地区を占めている。または見ることができる範囲は、広東テレビ局を擁する数台中継局、海南が全部地区、広西が部分地区、湖南が部分地区、福建が部分地区、江西が部分地区、香港、マカオが部分地区、または北の地帯がロシアに到達して、西の地帯がアフリカに到達して、東の地帯がヨーロッパ、及び南の地帯が東南アジア、オーストラリア、ニュージーランドを届き、全国の省級テレビ局では覆蓋率が最強、最大級のTV局である。

今日の広東テレビ局はすでに世界50か国と200地区のテレビ局や機構業務協調関係を連携してあり、広東TVが世界に向かうための良好な基礎を定めた。新世紀を迎えに当り、広東テレビ局は世界へ東方「南粤文化」の展示のために、中華伝統的文化と現代文化の多彩な番組によって、斬新な手段で編集しており、民族化と国際化接合した作品を民衆の前に示し新しい娯楽を提供してある。2001年に、広東テレビ局は開局42周年を迎えた。40数年の歴史を持つテレビメディアとして、正確的な理念を伝え、視野を開拓し、新しいイメージ、高い品位、大きい視角によって生活に接近し、大衆向きのサービスを主義として、全天候24時間、生き生きとした生活を記録、創造していく考えである。

1979年1月1日「広東電視台」の称号正式を使用(以前は「広州電視台」。広東テレビ局テレビドラマの発展は二つの段階を分ける。1966年1月から1971年9までに至って草創期で、テレビドラマ基本は現場が生放送を採用して、モノクロの画像伝送してある;二期は1972年2月で、専門のTVドラマチームを設立した。1980年「広東省TV劇団」成立。1981年7月、番組翻訳チームを組成した、吹き替え、広州語及び普通話を配合することが可能になった。1982年1月、初めにテレビ連続ドラマ《蝦球伝》の放送が開始。1985年4月、日本の連続TVドラマ《赤い疑惑(血疑)》広東語と普通話吹く替え版で、中国第3回映画とTVドラマ

「金鷹賞」最善翻訳ドラマを評価した。1985年10月、「テレビドラマ部」が成立。l987年に「テレビドラマ制作センター」に改称し、専門の職種が揃ったテレビドラマ生産体系を擁するようになった。

 様々な国際交流もあり、1986年には、広東テレビ局と日本のNHKが提携して、《早安、広州》の日本への生中継が成功した

1996年10月1日、《広東衛星方言ニュース》を伝え出し、広東語、客家語、潮州語を含めも放送を始めた。

テレビ局の言語文字メディアもあり、1982年6月には《広東電視週報》を刊行開始した。1988年9月には《広東電視》週刊誌を改版し、1992年1月に第500期刊行を達成した。

但し、この十数年、中国テレビの改革は、いまだ発展過程にあるが、少なくとも5年ほど新聞業界に遅れていると思われる。

  表に見ると、テレビ放送業界は依然として独占しており、自身の地位を維持し、「紅火(人気盛ん)」に経営し続けている。しかし、ジャーナリズムの独占は早くからすでに打破されて、競争が接近し白熱化している。当面中央テレビ局から省、市、県テレビ局まで全て政府の管理に入り、中央と地方の二つの権威に含まれている。

 次にテレビドラマはどうであろうか。

 人口約13億人、50余り多民族が暮らす中国で、アジア最大の多民族国家のテレビドラマは、風土を表現の核にして、普遍的なドラマの表情をみせてくれる。

 まず、日本を見ると。

 

日本最初のテレビドラマは、1940年(昭和15)の記念碑的なドラマ実験放送(NHK)が、伊馬鵜平(伊馬春部)脚本《夕餉前》で行われた。テレビの本放送は、1953(昭和28)年に始まったが、原則として「ナマ放送」である。ドラマの創草期は刑事もの、ホームドラマ、時代劇などのさまざまなチャンレルが出そろう1960年(昭和45)年までとされる。昭和36年、それまでNHKだけだったラジオ業界に、初めて民放ラジオ業界が発足し、数年の間に、全国に普及した。昭和38年、NHK東京局が開局してテレビが登場、NTV(日本テレビ放送網)もテレビ放送を開始した。

 民放ラジオ局、民放テレビ局の開局に際しては、太平洋戦争中に整理統合された全国紙、地方紙が、その傘下で兼営する形で進出した。在京キー局と新聞資本との系列は、NTVが読売新聞社、TBS(東京放送)が毎日新聞社、CX(フジテレビジョン)が産経新聞社、ANB(全国朝日放送)が朝日新聞社、TX(テレビ東京)が日本経済新聞社、となっている。

 放送や電波のもつ公共性と企業としての商業性を最も好ましい状態で両立させるために与えられたもので、その半面、民放事業は『電波法』や、その他の関係法令によって多くの規制の網がかぶせられている。主なものは:

①  五年ごとの再免許

②  マスメディア集中排除

③  県単位主義

④  教育、教養番組の放送義務

⑤  外国資本の制限

 

 放送局の免許期間は、『電波法』によって5年間と定められている。従って民放各社は5年ごとに再免許の手続きをしなければならないが、これは案外知られていないことである。また『電波法』に基づく免許自体は「無線発信局としての放送局」に与えられるという考え方をとっている。つまり、言論機関(ソフト産業)としてではなく、電波の送出主としての解釈である。

 しかし、放送局は電波の送り出し(ハード)と番組制作(ソフト)が、現実にはー体となった組織であるから、実質的には放送事業に対する『事業免許』の性格が強い。郵政省は事実上、放送局の経営、個々の番組内容に介入できる権限をもっていることになる。

 日本の郵政省は『電波法』に基づく『放送局の開設の根本的基準(省令)』によって、「一の者によって所有または支配される放送局の数を制限し、できる限り多くの者に対し、放送局免許や再免許を申請する際、テレビ局には教育番組を10%以上、そして教育番組を20%以上放送しなければならない」という条件がつけられている。また、ニュース時間も義務づけられており、各放送局は通信社から最新のニュースを仕入れている。ちなみに、全国の60%を超える放送局が共同通信社と契約している。

資本の構成についても制限がある。「外国資本の20%制限」である。具体的には、「日本の国籍を有しない者」あるいは「外国政府またはその代表者」、「外国の法人または団体」、「外国人株主が20%を超える内国法人」などには、放送局の免許は与えられない。また、免許後であっても、外国人の持株が全体の20%を超えると、免許は取り消される。このため、上場している民放社は、外国人の持株が20%を超える場合には、株式の名義変更を拒否できるよう放送法に規定されている。ちなみに、一般の上場会社の外国人持株規制は25%以内である。このような外国人の持株制限は、日本に限らず諸外国にも同じように見られる。放送とは、一国の文化そのものにほかならないから、一種の「純血」を守るために、さまざまな対策をするのは当然かもしれないが、その結果、放送を行いたいとする会社が自由に参入できない業界になっている。つまり、自由主義経済社会の大原則である「競争原理」が放送業界では例外扱いとなっているのである。同じ言論機関の出版、新聞産業と大きく異なるところである。現在、日本にいくつの外国系のTV局、或いは放送業務してだけのテレビ局にも例外ないだろうか。

 日本では、各区域社会における各種の大衆情報手段の所有及び支配が、放送局の免許によって特定の者に集中することを避けると定めており、同じ会社によるマスメディア三事業(テレビ、ラジオ、新聞)の支配を原則として禁じている。その結果、実態的にはテレビ一局、ラジオ一局のラジオ、テレビの兼営が限度となっている。

以上、日本の放送産業はさまざまな特権と規制に縛られた「特別な企業」として存在しているが、これは中国政府の放送産業一極支配とあまり変わらないと考える。

 

 「数」の規制に加えて、「場所?範囲」の規制もある。放送サービスのエリアは、その範囲が免許の際に決められている。一つの放送会社は県単位が基本で、「県単位主義」といわれる。一般の企業は、経営戦略上必要とあれば、自由に営業地域を拡大、販路を広げることができるが、放送局の場合は免許されたエリア内の視聴者だけを対象に放送を続けていかなければならない。その結果、否応なく民放は地域密着型の産業として位置づけられ、経営規模にも限界が出てくる。放送界は「中小企業の集合体」といわれるゆえんである。

以下、日本マスコミ産業の概要図:

 

中国のテレビは80年代以前、まだ今日のように普及しておらず、ごく一部大都市の極少数世帯がテレビを持っているにすぎず、テレビ局の規模も未だ比較的小さく、番組内容は党の方針政策の他に各政府の地域行政重大ニュースを組み合わせ、型どおりの報道に映画、劇、音楽や美しい映像、教養講座などを間に入れ、多様な視聴者が満足するよう制作されていた。

 中国テレビ放送の発端は、旧ソ連の影響を受けること非常に深く、旧ソ連人民代表大会は大モンタージュ式テレビ手法を用い広範な影響を与えており、ソ連の「政治理論のイメージ化」番組は、長期間に中国の放送業界に大きな地位を占めた。一定的の番組パターン、一つの観点が先行し、一つのテーマを捜し出してから、材料を選び、観点を論証し検討する。ここにでは、テレビは完全に唯一の政治の道具である。

 テレビの実質は一体に何か、また人類はなぜテレビを発明しなければいけないのか。

  答えは:需要が発明を生じる。テレビにも例外ではない。

 

日本のテレビ技術のパイオニアである高柳健次郎は、1926年(大正15?昭和元年)にテレビ実験で「イ」の宇を映しだすことに成功したのである。そのテレビジョンの復元機は、大きな木製のカメラ、筆太に描かれた「イ」の字の被写体、そして受信機の三つで構成されている。走査線は、わずかに40本であった。現在、普通のテレビの525本、ハイビジョンの1025本、最新型は1500本なので、これらと比較すると、かなりだらけた「イ」の字である。しかし、この「イ」の字は人を誘い込むように映っており、それは、世界で最初のテレビジョン映像なのであった。生活のなかでの偶然の出会いから、世界を大きく変革させる発明が誕生することがあるが、歴史的には、テレビ時代が始まるのは、30年後の20世紀の中頃においてである。

テレビの最も優れた点は全面的に分析することであり、メディアのあらゆる特性を提供することである。即ち、新聞、ラジオ放送は言語、文字また音声を引き渡すことだが、テレビはそれぞれにおいて優れている。ニュースを伝えるにあたって、テレビの最大きい長所は、特有の現場性である。今年9月11日に起きたアメリカの同時多発テロ事件で、そのニュースと映像は直ちに全世界に伝えられた。勿論、新聞及びラジオ放送局も各々詳細に連続的に報道されたが、テレビ報道の連続性同時性は他に追従を許さず、全世界人々はテレビ通じて、壮烈、凄惨な現場の様子を生々しく味わった。またテレビによって、世界中のあらゆるニュースが、24時間、グローバルに伝達されることが可能になった。

  80年代の中期以降、テレビ早急な普及に伴い、テレビの影響力は急増した。テレビは一般化し、番組内容も多様な変化が生じたが、時に際立つ変化は、娯楽性の増強である。文化革命以後は、テレビの内容は充実した。多彩な娯楽番組はすっかり人々の人気を集め、歌舞夜会(歌や舞踊などのバラエティー番組)はひっきりなしに放送され、多くの歌手は、お笑い芸人たちがテレビに登場した。この当時に、テレビ局が最も人気があったのは、文芸部に所属し、バラエティー番組のディレクターになることであり、多勢の文芸部スタッフが誕生した。テレビのバラエティー番組などの総合芸術番組は、共産党政権設立以来、社会の思想解放させた「春一番」であった。

 中国の放送業界に改革の「春風」を吹いた80年代後半から、広東テレビ局で制作された喜劇シリーズ寸劇TVドラマ《万花筒(万華鏡)》は、1986年民間の資本金で、地方の広東語使用し、庶民の生活を描き、全国的に大きな影響を与えた《万花筒》の本放送をスタート。この劇は一般市民の家庭、近所、会社における様々な人間模様、即ち「喜、怒、哀、楽」市井の風情を描いたものである。ドラマは週2回、約5年間放送された。ドラマで使用されている言語は、広州の地方弁である広東語を中心に、周りの県、市のなまりを交えており、このような同音異義の広東語台詞の効果は風味ともに親しみやすさがあり、大勢の市民を魅了した。このドラマは、放送当初から人気が高かったのだが、その後の局機構や行政の改革、脚本や経費等の諸原因で終了してしまった。しかし、方言または多語種がTVドラマにセリフ使用された良い経験として残った。

 

方言と共通語について、高 名凱先生波『語言学概論』にこう語っている:

「言語は社会慣習で一般に認められた[音声]と[意味]の統一体、或いは物を音声との結合である。数千万年前には、人類はすでに言語交流と思惟に慣れており、言語は思想交流の道具であった。

[共通語]は社会内の成員が共用する言語である。現代中国の普通話は中華民族の共通語で、中華民族社会の内部の全てが共用する交際と思惟の道具であり、北方方言に基礎として成形している。地区ごとに形を変えて形成された言語を、即ち[方言]という。

方言は伝統文化である。言語学における方言は地方言と社会方言を包括するものである。方言は、各々体系と特長を持ち、全国的には共通語に服従している。」

 言語は文字で表現した形式と比べ、声で表現したイメージにおいてより鮮明で、容易く視聴者の注目を集めることができる。即ち、テレビ「画面言語」と「文字(字幕)言語」二種の言語は誰が主か、誰か次か、まだナレーションのどんな名前を呼ぶか、テレビ製作者は一分一秒ごとに視聴者の嗜好に迎合して、人間の言語方習慣を言い表して、テレビ番組を企画、制作していく。人間は長期に言語という道具を鍛錬し、最も複雑なことをイメージとして声、或いは符号で表現した。人類が今日ような文明を進化させることができたのは、言語と文字の功がなくては不可能である。テレビ番組は生活の映写で、社会の映写である。テレビ上の文字と文字のエネルギーである音声によってイメージを表現する。言語文字はテレビにおいて最も充実したイメージを発揮できるのである。テレビ番組の言語実質は、所謂「テレビ文字言語」と「テレビ画面言語」である。音声と言語の合成で、社会生活の隅々まで、様々な形式で美化をすることができる。

中国のテレビ局の部門は非常に多く、番組形式は頻々として、テレビ局社内の基本構造を一応4部分ほどに分別した。即ち:

●ニュース専門

●広告

●文化的娯楽番組

●テレビドラマ制作である。

  このうち、TVドラマ制作部門に限定し研究を行う。

 

テレビドラマは単元劇、寸劇、連続劇、シリーズ劇などを包括する。それぞれによって形が異なり、美化する形式は生活を再現している。テレビドラマは実際には生活した素材を汲み取ることで、モデル化の芸術である。切り取ることができるのは、生活での偶然の一段で、映写するものは社会における平凡な事象である。だから、テレビドラマの創作はシナリオがあって、劇中の人物言語は台詞を語り、或いはダイアローグ、独白、ナレーションを語る。すべてのテレビドラマの言語文字は劇専任者が編集し書く。

21世紀に入り、広東テレビ局は、《万花筒》のような新たな連続喜劇TVドラマ《外来媳婦本地郎(他所花嫁と地元婿)》シリーズ劇を再開している。

広州市は、戸籍登録人口(常住人口)97年に約666.49万人、外来人口(流動人口)最も多いときで一日約2百万人といわれており、中国華南地方最大の都市である。

即ち、広州市は、地元市民だけでなく、近辺の県、市、町から仕事にきている人、あるいは、四川省、湖南省、江西省など内陸各省の地方、また香港、台湾から、南沿海部の大都市である広州市まで出稼ぎと商売にきている人々を集めており、多種多様な地方言語文化が交差、融合、親和する所である。

香港、台湾のテレビドラマを喜んで見る観客は少なくなく、分析すると、香港、また西側では、テレビ局、映画工場、新聞社、出版社はほとんど民営企業で、一切の文化的作品は商品であり、ただ視聴者へ売り、視聴者が消費して、ようやく経済的効率を生じることが可能だ。同様に、文化商品の制作者が創った作品は、大衆の視聴と消費に反応して、売れなければすぐ首になる危険の可能性がある。この市場を争奪する圧力下に、月日の経つうちに、彼らの血はすでに「市場の血管」に溶かし入って、それゆえ大衆が渇求的なもの制作して、通俗な変わった文化商品を制作した。通算して、アメリカ一般的世帯の1日にテレビを見る時間は平均3.7時間である。年に換算すれば56日となる。換言すれば、もし人間が普通の歳を生きることが可能ならば、一生の間にテレビ前に居ることは十数年となる。テレビは社会に対し極めて作用が見られる。

  放送専門家はナレーションの独立性と重要性の見方があった。彼らはテレビの言語文字を「血」、「魂」とみなして、生命をいるのテレビ番組に通わしている。

 

  テレビ番組の実際の制作中に、始終言語文字の思惟は貫通している。

文字言語で立案し、撮影することは、言語文字で主題を提げて、言語文字を番組に用いて、言語文字で番組を合成し、言語文字によって直接的に私たちの考えに影響している。文学と芸術の成分は、主に記録することで、生活を描写する文字言語である。

今回取り上げたドラマ《外来媳婦本地郎》の中で、いろいろな登場人物たちが使用している言葉は、広東語や広東省の中の地方弁(南海語、台山語など)だけでなく、普通話あり、湖南省の方言あり、河南地方の方言あり、上海語あり、ときには英語までも加わっている。  

要するに、このドラマは、登場人物たちが、中国東西南北、国内国外の様々な言語を駆使して喋り、そこから生ずる「同音異義」の勘違いや出身地の文化の相違による衝突などを利用して、喜劇的効果を生み出しているのである。放送直後から、前作品の《万花筒》より人気度は大幅に上がった。

台詞から分析すると、互いに異なる地方弁で話しているとき、このようなパターンが現れている:

 欧米、港(香港)台(台湾)を真似て、通俗文化が大流行している沿海の都市広州には、そこで使われている言葉もいろいろ混ざっている。しかし、地方で人気を博したテレビドラマ(特に北方語系以外の地方弁で制作されたもの)は、もし、全国的に放送された場合、同じようにヒットするかどうか、私は正直いって疑問であったが、調査した結果は、以下のとおりとなった。

 ①地方弁のままでは、全国放送できない。

 どんなに人気がある地方TVドラマでも、全国共通語である「普通話」を使用しなければならない。

 ②地方弁の作品では、海外に輸出しにくい。

どんなに人気がある映像作品でも、地方弁(北京語と広東語を除く)のものは、海外に売却するチャンスがなくなる可能性である。

 つまり、北方方言以外の地方弁で制作された映像作品は、その地域限定の商品でしかないと考えられている。

TVの裏には、またこのような関連のことがある。以下は、広東地方の通俗テレビドラマを例に述べることにする。

 

TVドラマは言語、放送関連を含めた総合的芸術形式の一つ分野である衆知のとおり、TV放送は単なる芸術ではなく、情報の転送でもあり、文献資料と科学研究の道具であり、社会的な連絡の重要な手段である。比べて、テレビドラマはTV放送スシテムのなかで、最少のTV属性、最大の芸術属性をもつものである。要するに、TVドラマと他の形式芸術との区別では、先ず、言語使用において映画との差異があり、地域によっては有利な言語優勢である。

テレビドラマは社会生活の一コマを抽出して、商品の属性を持っており、「政府型」新聞のように改革を考えている。テレビ研究者は、差し当たって全体的な水準から、テレビは新聞業界、特に「市場型」新聞ように、多くの方面で改革しなければならないことがまだある。

  また、中国新聞界の改革を参考にし、テレビの改革行程に従って比較して、中国テレビ業界の未來における発展の枠組み分析予測する。

 

 80年代から始まって、企業とテレビ局の関係は非常に密接であるが、広告は当然には扱うものではなく、多くの大型の夜会、専門番組、MTV、テレビドラマは全て企業の資金で制作され、ただ企業はこれらの資金を「賛助」するのみで、そこから得るものは、主にイメージアップ効果と反応であった。企業もテレビ番組には、ある一種の経済的収益が高い産業であると見ている。

テレビ放送とほかのマスメディアが市場で競争するという展開のなかで、地方に一つテレビ局はこれ以上独占的に経営することが不可能となって、現在では徹底的に独占を打破するべきという考えに到達し、市場化への道が一層加速した。今後は、チャンスと危機が併存し、希望と困惑が同伴している。

  1997年に到達して、中国にはすでにテレビ所有数は1.7億台であり、認可して成立した各級テレビ局はなんど3000軒である。中国テレビ事業が中央、省、地、県推進して重要な歴史作用を果たすことは疑いない。ただし、中国テレビ事業の育成において、大量投入と重複建設を引き起こし、コストの支出を増大させ、社会資源が大きな浪費をもたらした。同時に各級テレビ局間での無秩序な競争によって、マクロの角度から、中国の放送事業が存在する構造の平衡を失い、力は分散して、効果と利益は低くなり、無駄な浪費と混乱を招き、質と量の問題をなおざりにして、中国のTV事業の発展を著しく制限した。中国は発展途上の社会主義国であり、中国すべての問題は経済的、社会的な発展関係の問題と複雑に絡み合っている。

テレビ局が、将来も主要チャンネルによって存続できたしても、一方で、非主要チャンネルが市場化を押し進めて改革が進行していけば、やはり一歩一歩と市場化に向かい、さらには株式会社化することも考えておかなければならない。

  今後は、他の民間テレビの市場参入も相まって、テレビ番組が大量に不足するという事態、近い将来現れると推定される。その対応策としては、船が海に入るように業者間に同盟すること、特に今日のネットワーク経済時代のもとでは、インターネット産業との全面的に合流することにより、新たな放送システムが可能になることが、発展への唯一の道であろう。

民間化、合資化した番組製造会社は、損益についても自ら責任を負うことで、完全に市場化へ向かうことになる。それらはテレビ局既存の番組に挑戦し競争を開始することが可能で、放送業界全体の市場化行程を誘発することになる。

  即ち、テレビ放送業は「政府権威」と「市場権威」の分化が不可避となる。「政府型」テレビ局は、「政府型」新聞の教訓に鑑み、自己内部で分化再編を実現することもありうるので、将来の完全市場化へ向け競争の準備をしなければならないだろう。

  勿論、テレビ業界は依然として国家が独占下で経営されており、まだ完全な市場化の条件はそろっていない。しかし、テレビ番組を製作するには、大量な投資をしなければならないので、商業資本がこの新興の業界に入ることにより、さらにテレビ番組の製作が加速され、経営そのものを産業化していく。あるいは、日本のように、テレビ局が新聞、ラジオなどを共有する株式会社となって、共同で自分所有マスメディア各分野を経営することも視野に入れる必要がある。つまり、放送業界の改革時代が本格的到来することにより、業界内で互いに連合するなど、新たなチャンスが近い将来得られるだろう。

 

3.地方言語文化と視覚造型文化の最高学府――広州「中山大学」と「広州美術学院」

「中山大学」は広州市海珠区に本校、また広東珠海市に分校がある。

「中山大学」は原名を「広東大学」、孫中山が1924年に創立し、1926年、孫中山の記念のため、「中山大学」改名した。大学は在学生約11,000人、教員数は約1,700人。

「中山大学」は珠江の畔にあって、また南海の浜にもある。校舎は広州市南区敷地1.17平方キロ、北区は0.39平方キロ;珠海校区敷地は3.48平方キロを占める、合計総面績は約5平方キロにある。広州市南校区樹木葱篭、翠の草は生き生きしており;北校区の林は奥深い;珠海校区は依山臨海で、景色は心地よい。1931年の「中山大学」設立時にあった文、法、理、農、医の5つ学科は、同年カレッジに改称された。1934年は研究院(大学院)が設立し、院生の招聘開始する。1937年は文、理、法、工、農、医、師範学校の7つカレッジと1つ研究院。以後戦乱が原因で、広東の羅定、雲南の澄江、広東山間の平石、東江、連県など地方を遷す。1945年は広州へ帰った。その後、工、農、医、師範学校などは4つのカレッジは「中山大学」分離して、「中山大学」は文理学科に基づくの大学となった。

  2000年9月、「中山大学」珠海キャンパスは珠海市唐家湾に落成し、拡大された「中山大学」新世紀における発展の堅実な基礎を定めた。

  さらに2001年10月、「中山大学」と「中山医科大学」は合併して、新しい「中山大学」を組成した。

「中山大学?外国語学院?日本研究センター」/撮影筆者

  「中山医科大学」の前身は「博済医学堂」、1866年創立、中国で最も早く設立した西洋医学の学府で、孫中山は革命の活動に従事するとともに医学を学ぶ。孫中山を記念して、1957年にスクールは改名して「中山医学院」となった。「中山大学」と「中山医科大学」の2つは合併し、学科力量はいっそう強大になって、全国重点大学の一つとなり、国内同類大学の先頭に位置して、国際的にも大きな影響を及ぼしている。

  新しい「中山大学」には厚い学術の伝統があり、魯迅、郭沫若、馮友蘭、陳寅格、容庚、商承柞、王力など有名な中国内外の専門家、学者が以前、旧「中山大学」に教員として務めていた。梁伯強、陳心陶、毛文書など著名な医学専門家も旧「中山医科大学」に教員として務めていた。良好な学術風気と開放型で、「中山大学」と広東省の経済は並び立っている。

  「中山大学」は人文科学、社会科学、自然科学、技術科学、医学と管理科学総合性の大学で、「人文科学学院」、「嶺南学院」、「外国語学院」、「法学院」、「政治と公共事務管理学院」、「教育学院」、「孫文学院」、「数学与計算機学院」、「物理科学と工程技術学院」、「化学与化学工程学院」、「地球与生命科学学院」、「情報科学与技術学院」、「中山医学院」、「公衆衛生学院」、「光華口腔医学院」、「看護及研究生院」、「高等継続教育学院」と「通信教育学院」など63個学部を擁して、中国言語文学を共有して、物理学、化学、地理学、生物学、光学工事、生物医学工程、基礎医学、商工管理学、博士称号授与権は104カ所の学科専業と領域を覆って、ともに修士称号授与権を全て網羅した。

「中山大学」における中国言語文学、哲学、化学、生物学など6つの国家級研究基地。または中国古代文学、高い分子化学と物理、動物学、昆虫学、光学、医学、内科学など計8つ国家級の研究学科と31つ省の研究学科を擁している。

 私は訪問したときは、夏休みの期間中だったので、開いている場所だけ訪れた。

 まずは、言語関連の「外国語学院?日本研究センター」を訪れたが、遺憾で、「図書館」と「センター」共に休みであった。看板を見ると開館時間は長くない。当日は大雨だったので、一部の教室では相当数の学生が座っており、授業中で勉強専念している学生もいた。

 次に「人文科学学院?言語文化」学院へ行ったが、やはり全て休み中で、図書館を探したら開いていた。

 「中山大学」の図書館は全部で合計24軒であり、夏休みでほとんど閉館であった。幸いに第一図書館はまた開いてあり、さっそく研究関連資料を調べてみた。

 

 「中山大学」第一図書館は1924年創立、蔵書約334万冊(件)、なかには朝鮮出版物や日本出版物や中国歴代出版物各古書約30万冊(件)である。

ところに、瓣公室の林さんは「現在は夏休みなので,一部分が開館されている。探している資料と書物はまだ整理中なので、残っている分使うように」と教えてくれた。閉館時間まで、数年前の「中山大学」言語文化専攻者の修士論文『新聞記事言語考?楊怡』や『上砂客家語研究?周玉蓉』を一部分読んだ。

 翌日には、同じ海珠区にいるの「広州美術学院」へ行った。

 

 ?広州美術学院?では延教授を紹介してもらい、「現在、大学の職員たちの給料だけ国から支給されているが、それ以外の校内の管理はすべて?市場型経営?になった。毎年に国家高校統一試験合格の学生は、この大学の試験を受けて、合格したら入学金は自費である。この収入は学校の運営と職員たちのボーナスなどで使う。

 日本と同類大学と多分異なり?広州美術大学?の学生は、在学期間に校内の企業で働いてもよく、自ら会社を創ることも支持しており、万変の市場経済と商業潮流の脈が掴み、市民生活と市政建設に美術、造型、テザイン、設計関連分野に自分の専門力を入れ、卒業までに学習の成績と社会活動の成果を共に果たすというのが教育方針である。」

私は延教授と伴に校内を廻って見ると、確かにそういう感じであった。

 

四.地方言語文化の拠点――「広東省中山図書館」?「孫中山文献館」と?広州図書館?

  「広東省中山図書館」は大型総合公共図書館であり、サービス性あると同時に学術的文化機構である。この図書館は広州市文明路の一側であり、建築面積は3.2万平方メートル、園林式閣として、以前は清朝末期の「広雅書局」蔵書楼で、中華民国元年(1912)6月に創立し、当初の名は「広東省図書館」。中華民国16年にアメリカ、カナダ、メキシコ、キューバなどの華僑が孫中山を記念として、資金を集め「広州市中山図書館」を建設し、中華民国22年には落成した。1955年に省と市の図書館が合併して、「広東省中山図書館」と改名した。1986年「広東省中山図書館」は広州文明路新館へ転出して、原館はすぐ「孫中山文献館」と改称した。1991年末には360冊を収蔵、図書館管理の先進施設と図書館の自動化系統を開発し、全国で始めての地区性自動化ネットワーク図書館となった。図書館内または孫中山氏の演説録音(普通話と広東語)が設置されている。

分館は「孫中山文献館」、位置は広州市文徳路81号、建築面積の8,60Oの平方メートルは、孫中山の文献と広東地元文献を専門収蔵する図書館である。183人の職員があって、265万冊を収蔵し、孫中山文献、広東地元文献、南海諸島資料と華僑史料はこの図書館自慢であり、会議庁、展示場、図書室などの利用も可能になった。

  「広東省中山図書館」は豊かな地元の文献によって、良質のサービスをし、積極的に文献を開発して、新鋭のコンピューターシステムと活発的な広報活動が特徴である。現在館内収蔵したの書物は約380万冊である。なかに外国語の本は20万冊;外国語定期刊行物2.6万冊;400種外国語新聞。館内に設けた図書室が20数軒、中国語図書、中国語定期刊行物、中国語新聞、中国語辞書類、外国語図書、外国語新聞雑誌、文献が検索を含めている。また香港、マカオ、台湾の図書は、図書館学は資料、地元文献、善本、縮写、エレクトロニックの図書を見ることと、当然に、書籍と雑誌を持ち帰り、マルチメディアなどの図書室利用可能である。現在、平均毎日12.5時間を開放して、毎日は約600O人の来館を受けている。全国でも最長時間開放された公共図書館の一であり、全面的に計算機管理を採用するとともに読者のためにCD-ROMを提供して、光ディスクデータベースのコンピューターはサービスを検索することが可能、読者は直接PC上で文献資料の検索もできる。

「広東省中山図書館」は自動化系統(ZSLAIS)はこの図書館ネットワークセンーダを集め、設立所有記録した図書目録型、文献型のデータベースは約30万条、すでに近く30軒図書館ネットと、長距離オンラインが編目と検索することを実現し、2000年9月、この図書館は「中国図書館連合編目センター」「広東省副センター」になった。1999年の「広東省中山図書館」を中国文化部「国家第1級図書館」と命名される。現在、「広東中山図書館」の改造工事は広東「15」計画に入り、図書館は広東省組み入れ文献資料の収蔵とサービス、PCネットワーク、図書館と図書館の調和している。

  「広東省中山図書館」は積極的に情報サービスを開拓することに力を注いでいる。海外中国語新聞雑誌情報中心は「国際情報」を開発して、サービス経済の戦略を主義として、館内収蔵と海外中国語新聞雑誌情報の源に重点ある深層開発して、自らもってマクロを刊行して経済政治情報《决策参考》編集し、ハイレベルの情報をサービスとする《决策内参》が1995年に広東省政府から「省長と市長情報サービスネットワーク」に入ることが指定された。同年、《警界参考》にも登場した。《文化内参》、《海外教育参考》などの新しい刊行物は、警察関連、または、文化、教育管理部門へ情報資料を提供している。

 

広州「孫中山文献館」/撮影筆者

広州「孫中山文献館」はこれまでずっと地元文献収集整理を重視して、5.5万種、13万冊、広東新旧の地方誌約1,300種を累積した。旧家族族譜は411種、明の嘉靖黄佐『広東通志』は70巻で国内稀少版である。中華民国『続広東通志』はまだ刊行を経ていない原稿である。およびに、孫中山文献、南海諸島と海南島、東南アジア歴史学科、華僑資料、清史、金石、地図などの専門書収蔵もある。地元文献を開発して、図書館から『広東歴代人物資料題録』、『広東旧定期刊行物』、『潮(州)汕(頭)文献』、『客家文献』などの地元文献資料をデータベースし、読者が便利に利用できるように、広東の歴史研究に用いる。

今日、集団化などの大規模な企業は良質に情報サービスを提供し、取引先の信用獲得競争をしている。この中心はネットワークで全文データベースを利用して、全国ネット新聞の切り抜きの業務をして、毎日エレクトロニックの新聞雑誌データベース中からネットワーク上に載せてエレクトロニックの情報を着用することを可能にし、ユーザーそれぞれの要求を数字化して、電子メールでの方式でユーザーにサービスを提供して、図書館情報サービス時効性を大きく高めた。

 

「広州図書館」は大型の総合性公共図書館である。1982年1月正式に開館、舎館の建築面積は1.6万平方メートル、毎週6日開館いて、祝日と休日は平常どおり開放してある。設置した中国語図書、新聞雑誌、外国語、エレクトロニックの情報、地元文献、10数軒の図書室もある。中国語図書、定期刊行、コンピューター書籍と雑誌、外国語、音声資料など外借を可能である。ともに社会対して各種の各年齢適切な「研修塾」も蓬勃してあり、コピー、印刷、新聞の切り抜き、製本が装置を設置してあり、文献複製など対外のサービス項目もある。

「広州図書館」は開放型図書館を堅持して、館内の書物はすべて棚を開くことを借り、全国で最も早く棚から借りる公共図書館である。自動車図書館も開設して、市郊や地方政府に出張し、大型生活住宅団地の図書館と連合した。1991年~1997年には広州市サービス「百個最善良質模範単位」など称号得て、広州市民に全国でも図書館として良好なイメージを確立し、著しい社会効果と利益を取得した。近年に前後として「全国文明図書館」と評価されることに来て、広東省文明の図書館、自身技術的力を利用して、ミニ図書館自動化管理システムを開発することを当った。約40万種170万冊本を収蔵してある。初めは香港、マカオ、台湾、広州地元の文献を形成し、主要な図書目録データベース40万条はMARCの記録を擁している。1996年は正式にエレクトロニックの情報中心を開放して、インターネットの上での音声と文字の利用を可能にした。また「北京図書館」などの情報ネットと結合して、光ディスク検索とネットワークで言語文字提供する。積極的に国際文化学術の交流を展開して、日本福岡などの友好都市図書館は正式に図書交換と館員交流する成果も果たしている。

 

五.「思語失聡症」と「另類」

 臨地研究の日々に、いろいろな中国の若者に面対して、対照してより日本の若者とあまり変わらないと思った。家庭に中心位置が占めている「小皇帝」の「一人子」甘えすぎるの日々と、共に海外金銭万能主義風潮の影響で、独自の世界に篭っている子たちは少なからず自分と同類で群れつくっている。この子達は特別な趣味と格好を持ち、所謂「另類」である。また、心理学と精神学の「患者」に考えて見ると、若者における代表的な?思語失聡?と鑑定用語も近頃に出ていた。彼ら具体的な行為と表現私は以下のように感じである:

①「思覚失聡」

a.いつも周りに反応に対し無表情、或いは薄弱。

b.怪しい癖がある。行動が鈍く、遅緩している。

c.故意に自分を危険で困難な状態に置きたがる。自虐傾向あり、また突然原因不明の暴力傾向(一般に対物多い)。

d.記憶力低下。

e.感情はあるが、性慾と感動はあまり無い。

f.大笑、大泣がない。

g.猜疑心が強い。周りに評価と反応を敏感過ぎる。

h.我慢強さ足りない。小さな失敗や病気でも「死にたいほどの苦痛」を感じる。

②「語覚失聡」

a.言語表現が貧乏、話が流暢でなく、或いは使用語彙の数量が少ない。

c.無言が多い。

d.鋭敏な言語とユーモアをほとんどない。

c.自己卑下の性格。人間と交際が下手、人前に出る嫌がり、人々とコミュニケションギャップ有り、競争などを避けたがる。

 

六.まとめに

今回臨地研究のため、専攻課題を持ち、真剣に調査、真剣に考え、真剣に記録した。言語文化というは、広くて、深い海だと初めて感じした。

広州には、都市化進展のなかで、言語文化からり多種、多様、多層である。いろいろな人間と方言が混ざっているの社会が、地元人は、外来の人間と共存共栄しているようである。この都市における以前のような外来の言葉を聞いたら驚くような、或いは軽蔑の反応は見られないようだ。ずっと前は最も地元の人間が厳しい要求さていた職業であるタクシー運転手も今ではその約7割が外省からの地方出身者だ。つまり、現在の広州では、現実的に多言語と多方言が日常のことで、地元人が以前もっていた言語対立の壁は崩れてしまったのだろう。

21世紀はいろいろな国家、いろいろな民族、いろいろな学者、いろいろな階級の人間、いろいろな「新世紀」と言われていた。資本主義の日本でも、社会主義の中国でも;好景気の社会、不景気な社会でも、共に時が流れていき、前に進んで行くらければならない。PC産業、新聞業界、テレビ放送業界、教育界、人間、社会、環境、ナショナルキャラクターなどすべてと言語文化、コミュニケションに密着な関係があるだろう。若い世代への言語教育の軽視、人間感性の無視は、現代社会につきづき出現する問題の主たる「病因」と思っている。これから我々はこの世紀を対し、「責任」或いは「使命」を果たすべきだと考えている。

 

七.参考文献資料:

『テレビドラマ / 映画の世界 / 鳥山 拡』早稲田大学出版社 / 『中国人とつきあう方法?信太 健三』(株)時事出版社 / 『デジダル放送産業の未来』日本民間放送連盟研究所 / 『ダカーポ?459集』マンガジンハワス / 『テレビ24時間 / 小田桐 誠』日本放送出版協会 / 『放送 / 川竹 和夫』二期出版 / 『語言学概論 / 高名凱/石安石主編』中華書局 / 『電視文字語言写作 / 何 日丹等』中国廣播電視出版社 / 『マスコミ業界 / 岩崎 恭裕/尾上 進勇』教育社 / 『テレビCMを読み解く / 内田 隆三』講談社 / 『中国映画を読む本 / 藤井 省三』朝日新聞社 / 『TVドラマの鉄人B-G4 / 蕪木 和夫』蒼洋社 / 『ナンシー関 / 何もそこまで』角川文庫 / 『佐高信の斬人斬書 / 佐高 信』徳間文庫 / 『アジアから見たニッポン / 陸 培春』徳間文庫 / 『中国歴史の旅 / 陳舜臣』東方書店 / 『広東省 / 辻康吾』(株)弘分堂/ 『図説 中国の歴史』第9冊 / 講談社 / 『食は広州に有り / 邱永漢』中公文庫 / 『日本史総合図録』山川出版社 / 『岩波現代中国事典 / 天児 慧など』岩波書店 / 『新編 外来語辞典』商務印書 / 『例解学習 国語辞典』小学館 / 『日華大辞典 / 左秀霊 主編』建宏出版社 / 『三省堂 古語辞典 / 小松英雄』三省堂 / 『明解 古語辞典』三省堂 / 『日語縮略語詞典』商務印書館 / 『当代新漢日辞典』旅游教育出版社 / 『中日分類詞典』外文出版社 / 『カタカナ語新辞典 / 津田 武』旺文社 / 『新華字典』商務印書館 / 『外来語 / 略語辞典』集英社など

 

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